九十九山城の研究と横山源左衛門

細川氏政(うじまさ)城主と横山源左衛門長知(げんざえもんながちか)

織田信長が討たれた本能寺の変(1582.6.2)、これより少し前の当地は、長宗我部元親が四国統一に邁進中でした。土佐と阿波の大勢を制覇した元親は、1577年(天正5年)に、雲辺寺(66番札所)に立ち寄り、住職に「これより讃岐に侵攻し四国統一を果たす」旨を語ったことはよく知られています。その時、この地は、室本町の九十九山(つくもやま)に細川氏政が城を構え、その家老に横山源左衛門長知(げんざえもんながちか)が存在しました。九十九山城主については、その子信之説などがあり現在も研究が続いている様子でまだ確定的なことは言えません。ここでは、三豊市の山本祐三先生著作「西讃の山城第6巻観音寺市の山城」に掲載事項の一部(著作意図は反映できませんのでご容赦ください)を転用させていただいて、代表的な伝承としてお伝えしたいと思います。

〇最後の城主:細川伊予守氏政は善政をもって聞こえ、1578(天正6)年11月、琴弾八幡宮を再建、また鐘を改鋳して奉納した。この1カ月後の1578(天正6)年12月28日、長宗我部群の攻撃を受け、大晦日12月31日、氏政は夜に乗じて九十九城を降りて討って出て、興昌寺前面の水田あたりで戦闘したが、利あらずと見て興昌寺に入り、一夜庵前庭で自害したという。※城主が胡瓜(きゅうり)畑で討たれたので当時、室本地区の人々は胡瓜を食べなかったと言い伝えられている(※大西紘一氏(仁尾町)による)。
〇現在、一夜庵前に高さ2mほどの五輪塔があるが、これが氏政の供養塔であると言われている。しかし「観音寺市史」には信之の墓とある。興昌寺のご住職は、「いろいろな説があるのだ」と言っておられた(平成12年2月19日聞き取り山本祐三先生)。

 

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