横山源左衛門長知本家伝承の系譜により、末裔を確認済。
小岡、及び隣町に在住も個人情報は記しません。家紋は「三柏」。
家老横山源左衛門長知については、流岡町の加麻良神社において長宗我部元親と休戦調印した人物として神社記録に残っています。また、昭和61年発行「観音寺市誌(資料編):立専寺」の由緒の中にも記載されています。
神社記録の掲載は困難ですが、加麻良神社先代宮司故西田準一殿より頂いた大祭時の放送原稿の中に源左衛門長知の記載があるので紹介します。
尚、放送原稿は、全文掲載により、故人の心を偲びたいと思います。
〇加麻良神社の大祭時放送内容
氏子崇敬者の皆様、ようこそ延喜式内社加麻良神社の秋の例大祭に御参拝下さいました。加麻良神社の御祭神は、大巳貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)二座、お二人の神様をおまつりしてあります。おおなむちの神様は(大国主の神の青年の頃の名前で)御神徳は、大地の偉大なる神霊を意味し、国造りの創造神・農耕を司る豊饒神(ほうじょうしん)・方除(ほうよけ)・地鎮(とこしずめ)の神・福徳を授ける神・愛と誠と慈悲の神・生産神(せいさんしん)です。すくなひこなの神様は、病難を救う医薬の祖神(そしん)であることから、子供の健康祈願や夜泣き祈願で有名です。弘法大師も幼い頃、夜泣き、かんひきつけで参拝したと言い伝えられています。延喜式内社と申しますのは、醍醐天皇・延長五年に編纂された延喜式五十巻の中で巻(まき)九、十は、神名帳(しんめいちょう)とも称され、当時の著名な全国の神社が公選され記載されている2861社の事で、いずれの社(やしろ)も古代より信仰を篤くしてきた特別な神社で、1500年も2000年も以前よりその信仰の中心をなしてきたものであります。延喜の制により、加麻良神社では、平安時代より毎年の祈年祭(としごいのまつり)に際しては神祇管(じんぎかん)または国司が幣帛(へいはく:神に奉るみてぐら、お供)が奉られました。加麻良神社の歴史も、西暦851年皇紀1511年辛未「正六位」に始まり以来十度の位階増進によって永徳元年辛酉には「讃岐国正一位」になっております。
その後、長宋我部元親によって加麻良神社も別当宝珠寺も災火により建物はもちろん宝物古記ことごとく灰となりました。そんな中で九十九城主細川信之も長曽我部の為に滅亡しましたが、その後、細川の老臣で横山源左衛門正祐、流岡にかえり、最初に加麻良神社を再建し、その後で立専寺を創立し、慶長元年丙辰3月25日病没しています。これよりの社宝・扁額・棟札は全て山頂の宝物庫に展示してあり、中でも丸亀藩の慧開(けいかい)と心澄(しんちょう)の橘亀山(きっきざん)、加麻良宮の神風全集1から60の詩集の古文書解読は正に圧巻で四国最古社加麻良宮信仰の全てであります。
また延喜式内社にまつられている全国の神々はほとんどが自然神で一滴の水、一粒の米、地上の一粒の砂、一木一草も風も毎日呼吸する空気も人間が創りだしたものはなにひとつありません。謙虚な心にかえれば、これら全ては、天地自然の神々の恵みであり、今日元気で居られるのも先祖の命があったからこそと感じられます。
ご承知の通りわが国には全国津々浦々に到るまで、氏神様のないところはございません。それゆえ神社は魂のふるさとであり、鎮守の森はまた生活の根源であります。神道には教祖と称するものがありません。他の宗教に見るような教義も教典もありません。ただ日常生活の中に祖先を神と仰いで明るく浄く正しく直く(なおく)生活を念願するところに神道の本義があります。仏教では慈悲を説き、キリスト教は愛を説きます。神道では誠の心を説いております。四季折々に花が咲き、美しい山川が流れ瑞々しい稲穂が豊かに稔るうまし国が神国日本であります。1億2千万国民が誠の道を神の道と心得て、祖先を神と仰ぎつつ日常生活を浄く明るく正しく直き(なおき)生活を送ろうではありませんか。それが親への道だと思います。加麻良神社も悠久の昔より、郷土の鎮守として、遠い先祖の時代から崇敬され今日まで護持されてまいりました。そして、連綿として年毎の祭り、四季折々の祭りが営まれてまいりました。祭りというものは神様に対してまことを捧げその恩頼(みたまのふゆ)を蒙り(こうむり)、皆が一つの心にまとまり、神様から日々の生活を生き抜く力をいただくために行うものです。そして祭りはまた「神人共(かみひとともに)に働き」の後で「神人が共に楽をし」「神人が共に食す」という形によって、人々が神と一体となり神の心に帰ることを意味しております。
加麻良神社の大祭も盛大に賑やかに行われています。みこしも各地区の奉納太鼓も新しくよみがえり、神域の緑の杜には、活気が溢れています。この神事場での情景は氏子の皆様たちが、力強く生活を営んでいることの証であり、氏神様の最も喜ばれることでありましょう。私たちは神恩(しんおん)によって日々生かされているに感謝しつつ、神様とそして人々が共によりよい社会を築いてゆくという祭りの心をこれからも末永く実践してまいりたいと思います。・・(中降略)・・本日は、ようこそ古代米の加麻良神社の秋の例大祭に御参拝下さいました。
観音寺市史より:立専寺
所在地:観音寺市流岡町大字流岡字北川原680番地
宗派:真宗興正派
寺号公称:慶長元年(1596年)
由緒:長宗我部元親が讃岐攻略のとき、1581年(天正9年)、九十九(つくも)城の家老横山源左衛門は流岡に逃げ、世の無常を悟り出家して、正祐と号し当寺を創始した。岩谷阿弥陀仏(恵心作という)の石像や添え状があり、琴引(ことひき)八幡宮(はちまんぐう)の鐘楼(しょうろう)が1877年(明治10年)当寺に移築されている。
蛇足:当サイトを作成する私自身の祖先は、立専寺創始の約90年後の1675年(延宝3)2月に初代の法名が確認でき、その19年後の1694年(元禄7)10月に没っした與左衞門の法名記録に「当家開起(の人物)」とあり、家紋は、三柏に蔓を加えた「丸に蔓柏」としています。家紋は、分家などを契機に変化を加えるものとの伝承に整合しますから、源左衛門の関係が濃厚と考えています。